06 2 / 2012

"まず大きな問題は、他者とのコミュニケーションにおいて、
議論の「内容」を通り越して、
あまりにも「心理的」な反応をすることで
コミュニケーション自体を不成立に至らせてしまう傾向だ。

あまりに使い古された表現で言うのも憚られるが、
「意見の批判は人格の否定ではありません!」というお題目が指し示す通り、
主張や議論の「内容」自体とその主張をする人間の人格の好悪とは何の関係も無い。
論理展開の誤りや事実誤認、論点の見落としなどを指摘する行為に、
「ポジティブ」も「ネガティブ」もない。
逆に言えば、いくら議論でコテンパンに「敗北」したとしても、
それはあなたの存在そのものが否定されたことではなく、
あなたが「人格を否定された!」と感じ「傷つく」理由はどこにもない。


そして、そうした事実の正誤判定や論の妥当さの検討は、
発信者のバックグランドや人格、動機や事情を全く知らない
「赤の他人」であっても同じ土俵の上で行うことが可能であり、

一度自分の口から何かを発信した以上、その主張は
いつ何時、あらゆる人からの批判や検討の目を浴びる
可能性があるのは当然なことであって、
それが<自由>な議論ということだ。

自分が<自由>に発信をしたいというのなら、
同じように他者から<自由>な反論が来ることを
覚悟しなければならない。

ところが昨今多く目につくのは、
その人の人格とは関係ない(従って傷ついたり怒る必要もない)
議論の「内容」自体に対する批判の意見を受けたということだけで、
「自分にネガティブな感情を抱いている」
とか
「自分は嫌われ者だ」
という風な感情的な反応をしてしまう人がいること。

また、そういった反応をしてしまう当事者以上に問題なのは、
その人の「取り巻き」が勝手に当事者のための「正義の代理人」となり、
「アンチは相手にしちゃ駄目ですよ」
といったそそのかしをすること。


主張の「内容」自体に関する批判や反論は
活発に行われてしかるべきだし、その議論が
元の主張をより妥当性の高いものへと発展させる
役割を担うこともあるわけで、それは決して
批判を受けた本人にとっても「ネガティブ」で
忌避すべき出来事ではないはずだ。

それなのに、自分が発した主張の内容に責任を
負わず、他者の意見に耳を傾けることすら放棄し、
○:「ポジティブ」 ×:「ネガティブ」といった「心理的」な反応を
してしまうことは、非常にもったいないことだと思う。"

固定リンク 2リアクション